成長段階に応じた環境にいられないから、コンプレックスが積もる
学生時代の僕は、いわゆる「コミュ障」といわれる人でした。
友達の作り方がわからず、人に違和感を持たれずに接してもらえる方法がわからないまま大学に進んでしまって、いつも一人、いけていない人に見られていたようです。
そんな一人だけの僕の周囲は、
男の人と女の人がグループを作って自然に楽しそうに話をしているのとか、
学生のカップルがいちゃいちゃしているという、
大変うらやましいものでした。
続きを読むいらないと言われたものが、あふれている。かわいそうに思う
世の中には、必要以上にモノが多すぎると思うのは、僕だけだろうか。
家に売りに来ては断られるフルーツの訪問販売。
頼んでもいないのに付けてくれるおまけ。
別に遊ばない回転寿司屋のガチャガチャ。
もらっても使う予定もないまま置いている、贈答品。
いらない。
続きを読むノスタルジーと愚痴をセットで語るのはやめよう
2008年になくなった、大阪~東京間の寝台列車「銀河」の車内にて。オッチャン達と乾杯。(2008/2)
「今度はブルートレイン○○がなくなるのか、乗ってたのにな。残念だ。」
「あったあった!△△駄菓子!懐かしいなぁ。でも、今の時代じゃ作られないんだなぁ。」
「大阪が全盛だった大正時代は、すごい時代だったんだな。建物も街行く人もレトロでかわいい。」
僕も昔の懐かしいものや、消えゆくものが好きで、
こういうせりふを口にすることはよくあります。
しかし、その後に、「思い出をありがとう」のような感謝の言葉がつくとかならいいのですが、
後ろに
「○○を切り捨てる政治が悪い」とか
「それに比べて現在は…○○で…」とか
「新しい○○ばかり優先しないで、△△残せ!」とか
「最近の若い者は」*1
という愚痴を付けているのをよく見かけます。
それは、何も生み出さないし、負のオーラが漂いすぎてるだけなので、見苦しく思います。
*1:ネットを見てても「最近の若い者」も、懐かしいものや古いものが好きな人は、結構いることに気づく。十把一からげにして見るのはよそう。
種田山頭火のように、いい歳になっても悩んでダメやってる人になっていきたい
種田山頭火といえば、「分け入っても分け入っても青い山」などの五七五にとらわれない自由律と呼ばれる俳句の形を作った、20世紀の旅の俳人です。
しかし、彼の俳句を見てみると…
「まっすぐな道でさみしい」
「どうしようもないわたしが歩いている」
「焼き捨てて日記の灰のこれだけか」
といった、どう見ても優雅な俳句の世界とは一線を画しています。
寂しいという自分の感情を表わしたり、
自分はどうにもならないものだと諦めたような自虐のような句だったり、
過去を清算しようとした過去の重さはこれだけだったのか(?)とおののいていたり、
マイナスの感情をふんだんに、素直に表した俳句を沢山残し、
そこに引っかかるものを感じると同時に、強い共感を感じずにはいられません。
続きを読む