流れて消えるだけじゃ、語り合えないから

この人いいな、という人は、前向きでも後向きでもなく、ただ中間の状態でその場を動いているだけ。

山奥の引きこもりハウス(奈良・吉野「西行庵」)

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大阪から離れた、奈良・吉野の山奥に「西行」という、
西行というお坊さんが建てた小屋(庵)がある。
 
3畳くらいの広さで、家財道具は野良仕事道具くらいしかほとんど置いておらず、簡素な床の間があるだけの家だ
庵の奥には、座禅を組む西行法師の像が安置されている。

桜の木々に囲まれ、春は花びらで埋まるほどに美しく、目と鼻の先に遠くの山々が見渡せ、季節の移ろいをゆっくり感じることができるような、静かでささやかな環境の中に、庵が建っている。

 ★なぜ西行は引きこもったのだろう

西行*1は、平安時代末期、天皇の警護をするエリート武士だったが、
高貴な女性に失恋したのが原因で(?)出家。
 
それまで地位も名声も将来もあったのに、華やかで醜い争いをしている世界を捨て、何もない場所に庵を建て、自分自身とひたすら向き合った。
その後は、気の向くままさすらいの旅に出て、好きな所に小屋を建てては移っていき、たくさんの和歌を残したとか。

その小屋の一つが、吉野にある。


さて、どうしてこのようなことを書いたのかというと、
僕がたまに起こる「引きこもり」状態と、
シンパシーを感じるからだ。


僕はほとんど家から出たくなくなるときがある。
人に会うのを極力減らしたくなる。
近所を散歩することもしんどい。
外に出ると道行く人が怖い。
 

賑やかなところや、キラキラしたことや、無駄にポジティブなものが嫌だ。
うるさくて、情報過多で、優しくなくて、波にのれない。
大人しくても、前向きじゃなくても、主流じゃなくても、
自然でいられる人間関係や場所が欲しい。
 
まして、人間関係のゴタゴタは疲れる。
他人基準で生きていると、他人の顔をうかがわないといけないし、他人の都合に左右されてばかり。
自分をとっくに見失い、自分主体で観察し、考え、行動することができなくなってしまう。
 
 
そんな「やかましすぎる、やさしくない」世の中に疲れきって、西行法師は世を捨てたのかもしれない。
 

★僕はこれがあれば生きていける?

買物も好きじゃない。
必要最小限とカリントウ等の緑茶に合う菓子なら買うけど

テレビに出てくるモノが欲しくなれないどころか、うっとおしいと感じてしまう。

飯は有り合わせのものを食べていればありがたい。
たしかにグルメを食べに行きたくなるときはあるが、たまにだからいい。
物が食べられる時点でありがたい。

モノも置いていたくない。
ごちゃごちゃしているのが嫌だし、部屋が狭くなるし、ダニがわいて眠れなくなる。

服もそんなに多くいらない。

金を使うのは嫌だ。
罪悪感を感じる。申し訳ない気分になる。

仕事は別にしていたくない。
たしかに金は必要だけど、最低限あればいいし、

自分で食べれるものを作れれば、少しはましだ。

情報と娯楽を得るのに、パソコン(ネット)とスマホとテレビ(BS放送)と図書館があればいい。

世の中にあるものに、執着しているのもしんどい。

 


引きこもることは、自分を強い刺激から守っているようだ
強い刺激を克服して立ち向かって、明るくデキる人間になるんじゃなくて、
強い刺激から守られたままで、生きていきたい…。

欲しい情報を得て、本を読んで、心身に優しい音楽を聴いて、映画を見て、たまに旅に出て、自然の中を歩いて、気の合う人に会って、たまにはしゃいで、おちゃらけて、考えて、そうしていたい。

そんなところにシンパシーを感じるのだった。

 

*1:AD1118~1190年 平安時代末期の歌人で、『新古今和歌集』に多数の歌を残す。西行法師の生涯は左のリンクを参照