「人が気にしないでいられる所を、気にしてしまう」の起源
今週気づいたこと。
自分を言いくるめようとする人に、相手の思惑に気づき、はまらないように話を進めているときに、
「人が気にしないことが、僕は気になる」のはどうしてか、その理由が少し見えた。
それは、人に言いくるめられるのが嫌で、言いくるめられないようにしたいから、防衛手段として「気にならないことが気になる」のようになってしまったのかもしれない。
昔は、納得のいかないことを、相手に言葉巧みに説得され言いくるめられ、その場で納得させられていた。
しかし、後々になって、相手への違和感や反論がふつふつとわいて、自分の反応の悪さに涙しそうになったことがあった。
バカにされていると思いたくないから、相手に歯がゆい思いをさせられないために…
その後、論理的に話をする能力をつけたり、伝えたいことを伝えられるような能力を持ったり、違和感を正確に感じ取れるよう、自分の能力を研ぎ澄ますようにしてきた。
そうすることで、自分を言いくるめようとする相手と話になって、言いくるめられそうになることは少なくなったが、
その代償として、違和感のセンサーや論理性ばかりが異常に働くようになってしまった。
自分に敵意もない、普通の人に対しても、疑いの心で接したりするようになってしまったのだ。
だから、人が流せるところを流せなかったり、SNSで堅い文章を書いてしまい、人から「とっつきにくい人」に思われてしまう原因になったのだと思う。
元々は相手に騙され、いいようにされたり、ナメられないためのものだったのに、
敵がいなくなって、センサーを働かせなくていい人にも働かせてしまう。
言いくるめられるような人の方が幸せなのかわからなくなってきた。
しかし、論理性や人に伝える技術が高まったのは、良い面もある。
ますますわからない。