流れて消えるだけじゃ、語り合えないから

この人いいな、という人は、前向きでも後向きでもなく、ただ中間の状態でその場を動いているだけ。

弱者の自己分析 ; 自分が「弱い」ことを認めてから始める

就職をしたいとか、内定したい人は、この自己分析サイトを読まない方が良いです。

そんな「人生の一部分」のためにではなく、自分が本当にやりたいことをしたいとか、自分の弱さに向き合って生きる道を探るとか、どう生きて行きたいのかを、探していくのに参考になるための方法を集めたサイトです。

就職活動のための自己分析サイトはたくさんありますが、

これらは「他者のための自己分析」です。企業の求める能力に合う自分を探すやり方であって、

長期的には「自分のための自己分析」にはなりません。

人がうらやむ勝ち馬企業に入るために、自分をアピールし、人と差別化して自分をよく見せる、セルフプロデュースをするための

勝者(になりたい人)のための自己分析」でもあります。

対して、このサイトでは、長所も隠れたところを探すというポジティブな分析もありますが、

それ以上に、自分の弱さや欲求といった、どうしようもない自分を認めるところから出発しないと始まらないという意味で

弱者の自己分析」といいます。

まぁ、他のサイトをディスってもしょうがないので、ここから本題に入りますが…

自分が弱者にならないために必死な私たち

ところで私たちは、自分が弱いということを、なかなか認められません。

出来ることと出来ないことがあること、人がダメだと止めてもあふれてくる欲求がある、人には言えないことがあることを

認めようとしたり、目を向けたりすることができにくいものです。

自分が弱者であることを認めたくないがために、自分はまともであると思っていたいがために、

起こっている社会の営みは、多々あります。

例えば、いじめ

自分が弱者というポジションに転落しないよう、傍観者になっていじめる側に加担したり、いじめられる人を止められなかったりして、集団の中での生き残りをはかろうとします。

また、いじめられていたという経験そのものを隠したり、なかったことにしようとしている人をよく見かけます。

一度は見たことがあるでしょう。10、20代同士の会話で、

「お前いじめられてたんだろ~」

「ないない!そんなのあり得ません~!」

  とか

「見ろよ!アイツ中学んときいじめられてたんだぜ。」

「そうだったの!?ダッサー、アイツと一緒にされたくないわー。」

という会話を。

例えば、婚活

自分が人並みの生活を送れるように、人から「あんたの人生負け組」と言われないように

親から、同僚から、学生時代からの友人から、"普通"じゃないと思われないように、

あるかどうかわからない「独りで過ごす、寂しい老後」から逃れるように

人並み生活を送らせてくれるスペックを持った異性に乗っかろうとします。

その一方で、「この人とつきあったら、自分は"普通"でいられなくなる。」という、結婚の要件に満たない人に対しては、

排他的な扱いをしていくようになるように思えます。

僕も婚活パーティに参加して、何人か女性とお付き合いしたことがありますが、

いずれも交際期間は大変短く、「婚活って、人を"財産"や"物"にしか見なくさせる色眼鏡を、掛けさせるんだなぁ…。」と、実感させるものでした。

こうして弱者に転落しないために行動している人たちは、なんとかして弱者になることを避け、多数派で収まることができています。

「弱者になれば、いつまでも容赦ない攻撃と非難を受け続け、それまで親しくしてくれた人が付き合ってくれなくなる。」と思い込み、恐れているのではないでしょうか。

「くさい飯は、意外とうまかった。」

しかし、弱者というものは、そんなに悪いものではない、ということを知らずにいるのです。

僕も学校ではからかいの的にされ、学生生活に溶け込めず、就職しても長く続かず職を点々とし、ニートや引きこもりにもなり、20代の恋愛は、婚活に憧れる女性たちに「ないわー」と、いらない子フィルターで見られ続けた、

ドロップアウトしまくりの、弱者中の弱者の道を歩いてきました。

しかし、それが不幸せだったかというと、そんな風には思っていません。

たしかに、学生時代の同級生に久々に会って、定職についていないことが知られてしまって、そしりを受けることもありましたが、

"普通"を求める世間の価値観とそれなりに距離をとり、自分が生きやすい人間関係やライフハックを選び取るようにしてきました。

人間関係づくりが不得意だった僕なりに、思ったことを話し合える人間関係を少しずつ築いて拡げてきたり、

人に認められなくても、(無様かもしれないけれど)「これがあればなんとか生きていける。」というものを見つけてきました。

そうなると、世間的には弱者であろうとも、自分は生きていけるし、自分は肯定されている、と思えるようになってくると思います。

弱者(=世間の基準・規格から外れた人)であることに、そんなに負い目を感じなくなれると思います。

(※「弱者だからこそ、できることがある」と思えるようになれば、もう最強です。)

サブタイトルの「くさい飯は、意外とうまかった。」は、

15年前くらいにやっていた、刑務所を舞台にした映画のキャッチフレーズですが、

(たしか、『刑務所の中』というタイトルだったと思います。)

実際に刑務所で出される食事(通称:くさいめし)は、粗末で異臭の漂う食事ではなく、

栄養価やカロリーがきちんと計算され、食中毒が出ないよう、衛生管理が徹底された、

臭くない、むしろ美味しい食事だったということを表わしています。

これは、実際に服役した人から聞かないと、わからない情報ですね。

そんな風に、実際に「弱者」になったことのない人が、弱者になったら人生終わりと勝手に想像しているけれど、

実際弱者になってみると、そんなにしんどいものでもないし、世間の求める価値観から離れることもできるので、自分で考えて行動できるという自由を手に入れることもできる等の側面もあり、そんなに悪くないのです。

そう思えることで、自分を弱者だと素直に認められることにつながります。

自分が弱者だと認め、無理に強くなったり、人並みになろうと思わず、

自分のできること、できないこと、得意、苦手、あらゆるマイナスを見つめなおすことで、

少しは自分が本当にやりたい生き方をできるようになれるように思えます。

「弱者の自己分析」と銘打っていますが、本当の強さというものは、そこから始まるのではないでしょうか。