日本一寂しい旅を追求する?(後編) 奈良の廃村、中津川に降り立って
この企画は、旅で感じる「寂しい」をとことん追求するものである。
どうせやるなら、とことん「寂しい」旅にしようじゃないか。
今回は、奈良県の山奥「野迫川村」の、さらに奥にある廃村「中津川」。
人がいた村は、「寂しい」を詰め込んだ廃集落である。
A:和歌山県橋本市→B:高野山(壇上伽藍)→C:【奈良県】陣ヶ峰→D:野迫川村→E:池津川集落→F:中津川廃村→G:国道168号入り口→H:宗川野集落→I:城戸駅→J:奈良県五條市
★平安時代からあったのに
野迫川の廃村、中津川集落への道は、ここまでだった。
急斜面を石垣でせき止めた山の前に、苔に覆われた広場があり、そこに「野迫川村 中津川」という案内板が建っている。
それだけでもどこか異様だというのに。
集落を探索する。
ここは人の気配がしない、ということを聞いていた。
そこに、まだ使えそうな電柱と電線が張っていたというのが、唯一の廃村と文明を結ぶ細い線のように思えた。
村道を覆う苔と、水たまりが、この先の行く手を阻むようだった。
この建物は、小学校だったらしい。
3教室あったという。今では何の建物かわからない。
建物の持ち主が、時々来るのか、まだ使えるビニール傘が入口に吊りかけてある。
それは、誰か人が来るのを今か今かと待ちわびているようだった。
入口には壊れたオルガンと、木の机が置いてあり、
辛うじて、学校だったということがわかる。
中津川小学校は、明治時代に開校したが、
人口の減少で、昭和43年に児童数5人となったのを最後に、昭和44年に休校。それ以降は復活することはなくなってしまった。
同時期に、中津川まで伸びていた路線バスが休止し、そのまま廃線になってしまった。
村は、道の奥に閉ざされてしまったのだ。
一見人が住めそうな家。しかし…
入口は草が覆い尽くしてしまい、入ることは不可能になってしまった。
よほどの肝試しをしたい人しか近づかないだろう。
この中津川廃村の歴史を調べていた人によると、
昭和22年、中津川には166人が住んでいて、ピークだったという。(野迫川村全村では3905人)
しかし、それ以降は坂を転げ落ちるように、人口が減少していく。
昭和35年(2年後に路線バスが開通)では、41人。
たった10年ほどで、1/3以下にまで人が消えてしまった。
若者が不安定な林業の仕事しかない野迫川村を捨ててしまったからだという。
教育もあって、路線バスもあって、せっかく便利になったところだというのに。
苔に覆われた道。
開けっ放しの民家。こういうところに入る勇気は…ない。
居るだけで精一杯なのだ。
自分の防衛範囲は、せいぜいこの舗装された山道だけ。
想像して欲しい。
それまで人がいない道、自然に押し流されようとする道を逆らって、クマやイノシシに襲われるかもしれない恐怖に耐えながらやってきて、得体も知れない廃村に居る、この怖さを。
自分でやってきてしまったなら、それでいいが、
ここで「家に入れよ」という人がいれば、僕はそいつを恨むだろう。
家に入らなくても、その荒廃ぶりが伝わってくるようだ。
石垣をコケがびっしり覆いつくし、隙間から次々と木が生えてしまっている。
そして、木の塀が長年の風雨を受け、倒れてしまっていた。
誰も直す人もないままに。
石垣を割って生える木。
何年放棄されてしまったのだろうか。
道の下にある家。
トタン屋根に落ち葉が限りなく積もる。
屋根の下には空間しか確認できない。
屋根が落ちる日も、遠くはないだろう。
急斜面に作られた民家。
門構えが立派だ。
高く積まれた石垣も相まって、山奥の山上の寺院のような風格がある。
ここはとにかく木があるのだ。木だけは。
中津川村は、なんと平安時代からその地名があったらしい。
きこりや山仕事をする人が住み着いたという。
ここは急斜面にあって、平地が少なかったので、米の生産等の農業ができにくかった。
その代わり、木はたくさんあったので、杉やヒノキで作った箸・杓子・経木を作っていた。
また、冬の寒さを利用して、高野豆腐を作っていたという。
中津川の住民は、高野山に村で作った箸などを売りに行き、生活に必要な米や塩などを手に入れてきたという。
今まで通ってきた道は、平安時代から現在まで、生きるために人々が往復した道だ。*1
後々思えば、荒れて寂しかった道も、踏みしめているような感覚になっていく。
その記憶は、本で想像するしかなく、誰も鮮明に伝えられる者はいない。
急斜面の森を見れば、「高辻山」と刻まれた(焼印された?)木が一本ある。
ここは「高辻山」への入り口だろうか?
山仕事の人や登山の人がここから登っていくのだろうか?
木の寿命は長い。
廃村になろうが、木は残り、刻まれた字は、くっきり残る。
帰りの無事を祈願しに、神社に参拝した。
鳥居といっても、小屋をくり抜いて、通り抜けられるようにしたような造りになっている。
鳥居には、鈴と紐が結び付けられ、
額には祀っている神様が書かれている。
おなじみのアマテラスや春日大明神、神と仏が混交した八幡大菩薩。
華美な高野山に比べて、あまりにも質素で素朴な祈りの空間だ。
足元が揺れる石段を登れば、小さいが本殿がある。
いつでもバイクに逃げ帰れるように、ヘルメットと手袋をしたままの僕は、
礼をして、手を合わせて、おそるおそる神仏に祈った。
手がポンッポンッと鳴ったのは、言うまでもない。
★改めて、「寂しさ」って何だろう?
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす…。」*2
中津川に居たとき、平家物語の冒頭の一文をずっとつぶやいていた。
1000年続いたといわれるこの集落も、時の流れと共に衰退して滅ぶ。
同じものは常に同じでいられない。いつもあるものはいつもあることができない。
形あるものはいつかなくなる。永遠というものはない。
全てのものが負った宿命があり、それに逆らいたいけれど逆らえないから
寂しさが生まれてくるのかもしれない。
その感覚を廃村は突きつけてくる。
廃村には別れの記憶がつきまとう。
村が続く前提で人生が回っていたなら、寂しくなかっただろう。
自分の生まれた村が、存在し続け、自分を守ってくれる土地や先祖の存在があったから、安心できただろう。
しかし、村を捨てる人が続出して、村で過ごした人との別れがある。
さらに、村に残ったお年寄りが死別してしまったりするという、別れもある。
自分の周囲の親しかった人が、一人、また一人と会えなくなってしまう寂しさは、どれほどのものだろう。
その上、自分がずっと慣れ親しんだ村までもが消えゆこうとしているのを、当事者として感じているのだ。
その寂しさは、当事者にしかわからないだろう。
僕は縁もゆかりもない廃村に、寂しさの記憶を持たずにやってきた。
しかし、僕はそんなに寂しいと思わなかった。
なぜなら、村の当事者と記憶も寂しさも人間関係を共有していないから。
しかし、村には、僕一人しかいなかった。
これは「孤独」なのだ。
せいぜい「心細い」くらいなのだ。
しかし、孤独と寂しさは違う。
「寂しさ」は、人とのつながりがあって味わうもの、そして、全てのものがいつまでも同じでいられない中に生きて、形が変わってしまったときに味わうものなのだ。
寂しさの奥には、「不安」が隠れているのかもしれない。無常というものへの。
★かえりみち
中津川から道は続いていた。
澄んだ水の渓谷がはじまり、大きくなり、工事車両が現れた。
ようやく、人の気配がしてきたときは、「助かった!」と心の底から安心した。
国道168号と、五條市大塔村の宇井集落に出た。
168号の交差点では、自動車が目の前をビュンビュン飛ばしていた。
この道路は、紀伊山地を南北に貫いて、奈良と太平洋を結ぶ道路だった。
昔は狭く、迂回路が多く、落石・崩落などの事故が多発し、行き来に時間が掛かった。
今では、渓谷の上にバイパスを通し、山をトンネルでぶち抜き、ほぼ直線の、まっすぐ飛ばせる道路になっていった。
大塔村宇井からトンネルを抜けると、すぐに秘境・十津川村だ。
しかし、この様子を見て、
「もはや秘境じゃない。これは、文明じゃないか。」と、つぶやいた。
時計は午後4時半をさしていた。
もうあと50kmほど走って、別の廃村に行こうと思ったが、
秋は日が暮れるのが早い。
おとなしく帰って、別の日に行くことにした。