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漂流、いいじゃないか!

周りのことばかり気にしてきた人が、「周囲のことを気にしないで、やりたいことをやる」をモットーに書いてます。趣味、旅行、哲学などの話を書いています。

ノスタルジーと愚痴をセットで語るのはやめよう

閉塞感・違和感を考える

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 2008年になくなった、大阪~東京間の寝台列車「銀河」の車内にて。オッチャン達と乾杯。(2008/2)

 

「今度はブルートレイン○○がなくなるのか、乗ってたのにな。残念だ。」

「あったあった!△△駄菓子!懐かしいなぁ。でも、今の時代じゃ作られないんだなぁ。」

「大阪が全盛だった大正時代は、すごい時代だったんだな。建物も街行く人もレトロでかわいい。」

 

僕も昔の懐かしいものや、消えゆくものが好きで、

こういうせりふを口にすることはよくあります。

 

しかし、その後に、「思い出をありがとう」のような感謝の言葉がつくとかならいいのですが、

後ろに

「○○を切り捨てる政治が悪い」とか

「それに比べて現在は…○○で…」とか

「新しい○○ばかり優先しないで、△△残せ!」とか

「最近の若い者は」*1

という愚痴を付けているのをよく見かけます。

それは、何も生み出さないし、負のオーラが漂いすぎてるだけなので、見苦しく思います。

 ★他人に任せるばかりで自分は何もしない

 「○○がなくなる」とか「△△でよかったのに、新しいものにされちゃって!」というノスタルジーを含む愚痴のパターンは、

たいていが、他人が決めたことを見て起こります。

 

たしかに、昔からあったものを続けるか辞めるかは、自分ではなく

財力が大きく結果を求められる企業・自治体や、体の限界、施設の老朽化などの諸事情で活動が続けられなくなった個人・組織が決めます。

 

自分ではどうしようもないからこそ、歯痒く、受け入れがたく、

だからこそ、悔しさとともに愚痴が湧きあがって来やすいのでしょうか。

 

しかし、あまりにも自分のことは省みず、他人に求めてばかりなのが目立ちます。

 

「なくなってしまう」とか「昔は○○があった」という中で、自分はどうしていくのか、どうやって自分を納得していくのか、あるいは代わりの手段を講じるのかがなく、

ただひたすらなくなってしまうことに対するグチばかりになっている人がいるように思えます。

 

★必要なら作ろう、求めよう

「なくなってしまう」のが残念なのは、多くは自分にとって必要な手段や居場所だったから、という理由があるように思えます。

 

しかし、それがなくなったことに、ずっと不平不満を唱えていていいのでしょうか?

 

なくなってしまうからこそ、「自分は何が欲しかったんだろう」ということを問い直す機会になるかもしれません。

 

そして、そこで出た「自分が欲しかったもの」が、必要なら自分で作るということはできないでしょうか?

 

それは何も、以前あった懐かしいものと同じものでなくていいのです。

懐かしものがあったときに、自分を満たしてくれた要素を抽出し、自分を満たしてくれる物事を作るのがいいように思えます。

 

あるいは、すぐに作ることができなくても、「自分の欲しかったもの」を求めて、あちこちに出かけたりとか、他の人と話しているうちに、誰かと一緒にやったりとか、やってくれそうな人が見つかったりするのもアリじゃないでしょうか。

 

 「そんなことしたら、□□だから…」と、言い訳口上を口にします。

それなら、出来る事から始めてもいいんじゃないでしょうか。結果はすぐに求めないで、「○○が欲しい」という高い目標を持っておいて。

 

 

とにかく、懐かしいものがなくなることで、愚痴り散らすのをするくらいなら

その中に自分に必要なものを見つけ出し、作ったり、求めたりすることが大事だと、僕は思っています。

*1:ネットを見てても「最近の若い者」も、懐かしいものや古いものが好きな人は、結構いることに気づく。十把一からげにして見るのはよそう。