学芸員に、元学芸員(?)が、「教えてあげる」風にクレーム、その心の中を考える
昨日、とある美術館に行って、展示を見てました。
人気の展覧会ということもあって、ショーケースの中身をのぞくのさえやっとな位、人でごった返して、辟易してしまいました。
それは僕だけではないかもしれませんが、
混雑に苛立っていた人のひとりが、会場に立っている学芸員さんに、アドバイスをしているのを見ました。
「私は昔、○○博物館で学芸員として働いていたんですが、私からすれば、あなたがこのお客さんたちをさばけないのは、きちんと仕事が出来ていない証拠です。」
自分が、元々学芸員で、現場の現役学芸員よりも経験があって、先輩風を吹かせて叱っているように見えます。
このやり取りは、こう続きます。
「私なら、こういう風にして、お客さんを誘導し、さばきますよ。あなた、そんなこともできていないじゃないですか。あなたがやる資格があるんですか?」
自称・元学芸員は、専門知識めいたことを動員して、学芸員さんに詰め寄ります。
彼に詰め寄られた、現・学芸員(しかも2,30代くらい)さんは、ひたすら平謝りしていました。
★自称・元学芸員はただのクレーマー?
一言で言いますが、嫌な客です。
しかし、同時に、脆い客です。
同業の先輩としてアドバイスをしているように見えますが、
その実は、ただのクレームです。
元学芸員なら、博物館の組織は大体頭に入っているのではないでしょうか?
その上で、一番声が届きそうなところに対してアプローチするのが有効だと、知っているのではないでしょうか?
ところが、アンケートに答えるなり、投書をするなりしないで、ただただ、そんなに権限のない(?)学芸員に、自分の不満をぶつけています。
ここで「この人は学芸員なのかい?」と、徐々にメッキがはげていきます。
しかし、この自称・元学芸員が本当に学芸員かどうかは、あまり興味がありません。
どうしてこんな詰め寄り方をしているのか、考えてみたいと思います。
★自称・元学芸員の気持ちを考える
人に話を聞いて欲しい。自分がして欲しいことをして欲しい。
しかし、それをストレートに言って、叶えられることは、なかなか多くはありません。
だからこそ、少し手のこんだ方法を使っていきます。
しかし、何かしらの包み紙に包んで気持ちを伝えたり、頼んだりすることをしていくうちに、
自分は本当は何がしたいんだろう、という本音が段々見えなくなります。
さて、自称・元学芸員ですが、おそらく展覧会の会場が、混雑してやかましくて、思うように展示物が見られないことが、不満なのだと思います。
それをぶつけ、どうにか解消して欲しい。これが本音なのだと思います。
しかし、どこの誰かわからない人が、本音をストレートに言っても、聞いて改善してくれないかもしれない、と内心では恐れています。断られることが怖いのでしょうか。
そこで、話を聞いてもらえるように、
というより、聞かざるを得なくなるように、
肩書きというものを使います。
「○○博物館で学芸員をしていた」というものがあれば、○○博物館というネームバリューもあるし、学芸員という経験も専門的知識もあるし、それにひれ伏して、話が通りやすいと思うからです。
さらに、自分の話に正当性があると見せるために、専門知識で武装します。
「虎の威を借る狐」とは、まさにこのようなことをいうのですね。
そして、自分の話を聞いて欲しい、言う事を聞かせたいという思いから、
現場にいる、それも経験が少なそうな、若い学芸員を狙って、元学芸員の説教を始めます。
しかし、学芸員や専門家のようなヨロイを着た人の中には、
人を思い通りにさせたいという自分コントロールの利かなさと、
断られること、自分をつまらないと見くびられることへの恐怖が、しみついています。
心理学には、「防衛機制」というものがあります。
自分が傷つかないようにするために備わった、あらゆる心の働きです。
その一つに「知性化」という働きがあります。
先のように、自分が何かまずいことがあると、専門知識の羅列で武装したりして、一見頭が良い人を装う働きなのです。
その知識の下には、自分が触れてほしくない弱点が隠れています。
それが防衛機制なんだと知らない人は、「この人は頭がいい!専門家なんだ!」と見えて、意見に同調したり、逆に「専門家に逆らえない…悔しい…」と見えてしまいますが、
これが「知性化」→「防衛機制」→弱点隠し
だと知っていれば、この元学芸員風のクレーマーも、ハイハイと受け流せるかもしれませんね。