流れて消えるだけじゃ、語り合えないから

この人いいな、という人は、前向きでも後向きでもなく、ただ中間の状態でその場を動いているだけ。

すごい日本奥地紀行【南信州編】 第8回 御嶽山

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【第8回】

大阪→→馬籠宿→(長野県)妻籠宿遠山郷→下栗の里→ 諏訪大社奈良井宿

御嶽神社開田高原→(岐阜県)御嶽スカイライン喫茶・五重塔

下呂温泉(3泊目)→ 関善光寺→岐阜大仏→長良川沿いに続く道→→大阪

 

長野秘境ツーリング。御嶽山は、思った以上に謎の山だった。御嶽山に登らない、よく見える、でもちょっと怖い道へ、バイクは行く。

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★御嶽若宮神社

御嶽山に向かう道は、森の中に墓石のような独特の風景が、どんどん増えてくる。

 

いったい何を意味するのだろうか。この正体の一つ、「御嶽若宮神社」へ向かった。

御嶽山を総本山とし、世界の中心としている「御嶽教」の神社の一つである。

 

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神社は、薄暗く細い道を走っていたら、突然現れた。

高い杉の森の中に、まるで裏庭で古代の遺跡を発見したかのように、原始的かつ、何かを感じずにはいられないたたずまいの神社だ。

 

鳥居には、ご幣が付いたしめ縄が張られ、この世ならざる場所との結界めいた神聖さを感じさせる存在感が宿っていた。

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参道を進んでいくと、伊勢神宮にあるような、木で組まれた、掘立小屋のような*1建物が、深い森の中に、埋もれるように建ち並んでいた。

 

人は誰一人来ない。

森深いので、熊や野犬が来るかもしれないという恐れがこみ上げてくる。

 

耳元で騒ぐ蚊がやかましくて、自分がとんでもない場所にいるかもしれない、という気分が半減してしまった。

 

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左の建物が拝殿のようだ。

右の建物(絵馬が奉納されていた)と屋根で繋がっているのが珍しい。

ちなみに、拝殿の裏側に、さっきの参道と神社があった。

なかなか見たことがない。

 

人がなかなか来ないのか、建物の表面や内部が、若干、「家を空けて1年くらい経っている」くらいの気配のなさになっていることに、妙な不安を感じた。

 

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深くて暗い森の中に、これだけの建物が佇んでいるだけで、「なんだこれは?」と、

滅びてしまった古代の遺跡を探検して慌てているような気分になってしまう。

誰が何のために建てたのだろう、という疑問がわいてしまう。

 

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御嶽教霊場開田高原

御嶽若宮神社の近くに、木曽御嶽総本庁があった。

道の駅のような建物の横に、2階建ての建物、そして近くに、御嶽神社里宮という、200段くらい階段のある登りのきつい神社があり、御嶽教関係の施設が集まっていた。

 

一見すると、のどかな公園のように見えた。

奥に公園があったので、一休みした。

 

なだらかな丘に、大きな球がいくつもある公園。

この公園は、宇宙の摂理とか太陽系を表わしていて、球は太陽の周りを回る惑星だとか。

 

何気ない公園でさえも、ゆるーく宗教っぽさを出しているあたりが、脱力感がある。

 

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先も、御嶽山のふもとに、墓地がごろごろあると言ったが、

実はここは「霊場」だという。

 

御嶽教は、御嶽山を修行の道場とする宗教だ。

全国にいる信者は、聖地・御嶽山に登って参拝するために、厳しい修行をし、その修行を果たした者が、こうして霊場に眠っている。ただの墓地ではないようだ。

 

人間が御嶽山から生まれ、御嶽山に還るという宗教観だということを表わしているのだ。*2

 

 

御嶽教は、神道仏教でもない。

 

まず自然崇拝という原始的な宗教がある。山を神体として信仰するのがそれだ。

なぜ御嶽山が聖なる山として信仰されているのだろう。

それは、大きな自然の恵みを与えつつも、同時に火山活動や地震であらゆるものを破壊してしまう、とてつもなく巨大な力を持ったから、信仰の対象となったのではないだろうか?

その上に、大自然のなかで厳しい修行をする修験道や、仏教神道などが重なってできた宗教だ。

 

この霊場には、大国主命(おおくにぬしのみこと)少彦名命(すくなびこなのみこと)という、日本の神話に出てきた神様の像が建っていて、神道の神のように信仰されているが、六根清浄*3という仏教の考え方も取り入れられていて、神道仏教と混ざり合っている宗教だといえるようだ。

 

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何に感銘を受けたのかというと、この地域の人や御嶽教を信じる人にとって、

世界の中心は御嶽山で、人間は御嶽山から生まれ、死ぬときは御嶽山に還っていく。

そのために厳しい修行をすることで人生が回るという、

まるで神話のような世界観を持っているということに驚いたのだ。

 

日本人だって、古事記にはじまる日本神話が、世界のはじまりで、今もアマテラス等の天の神様が日本に恵みを与えているなんて思っている人は、少ないかもしれない。

 

理科の授業やテレビ番組とかで、地球の誕生や、気象・災害の仕組みは習ったし、日本の歴史は縄文時代弥生時代があって、現在に続いていることは、誰も知っているし、信じている。大多数の人が信じている常識だ。

 

 

しかし、御嶽教を信じる人にとっては、御嶽山を中心に世界や人生が回っていることが常識なのだ。

常識があることによって、日本は一つになってしまった。

しかし、それが通じない場所があることは、不便かもしれないし、画一的になることから守られているかもしれないのだ。

 

ちなみに、ここも霊場だが、

左裏すぐには、なんとペンションが建っている!

大丈夫なのだろうか…。

 

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開田高原

開田高原という、そばの畑が広がる高原に来た。

 

高原といっても、リゾートにありがちな、変なお土産や屋リゾートホテルが乱立しているわけでもない。

いくつかのペンションが点在していたりして、静かな避暑地という感じだった。

 

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岐阜県の県境に近く、1000~1500mの高地にある。

真夏の昼でもTシャツではかなり涼しい。

 

そばの畑が広がり、高原というには、素朴な山の田舎の風景が広がっていた。

横に長く、赤瓦屋根の傾斜の少ない平たいめの木の家が、ぽつぽつ並んでいる。

そんな高原の風景を、ゆっくりバイクで流して、岐阜県へと向かった。

 

 

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岐阜県境へは、10分もしないうちに来てしまった。

あとは下呂温泉に降りる道の途中、山道から御嶽山を眺めるコースになってしまった。

今まで通ってきた道が、長く感じた。

 

岐阜県境に入って、あれだけよく見た御嶽教霊場は、すっかり姿を消していた。

 

 

というわけで、今回はここまで、次回から岐阜県編に入ります!

 

 

*1:掘立小屋というが、「神明造り」という、古代日本からある神社洋式の一つである。

*2:より正確に言うと、「聖なる御嶽山から放たれた分霊が、子供に宿り、死後は、霊魂が御嶽山へ還っていく」という、ある種の「生まれ変わり」思想といえる。

*3:ろっこんしょうじょう・人間にそなわった6つの意識を清浄にすること。「眼根(視覚)」「耳根(聴覚)」「鼻根(嗅覚)」「舌根(味覚)」「身根(触覚)」「意根(意識)」が六根。仏教用語