「俺たちの国芳 わたしの国貞」を神戸市立博物館で見てきた ~スマホで作品情報すべてを捉えられるか?~
僕の趣味の一つは、博物館めぐりだ。
暇さえあれば、博物館や美術館に入ったりしている。
このブログを立ち上げてから第1弾は、神戸市立博物館で開催中(8月28日まで)の
「俺たちの国芳 わたしの国貞」という、浮世絵の展覧会を見てきた。
歌舞伎のスターの肖像や、歌舞伎の場面を切り取り、大胆な構図で描いたものが多く、一枚一枚本当に見応えがある。
歌舞伎を元ネタにしたものが多いので、浮世絵を入口に、歌舞伎にも興味を持てそうな内容だった。
この展覧会でいつもと違うのは、作品を写真に撮って、SNSにアップできるということだった。
僕は博物館に行ったら、一点一点つぶさに写真を撮って、思い出に残したがる。
普段撮影禁止の美術館でも、そうしたいくらい記録魔なのだ。
だから、この歌川邦芳・邦貞展でも、1分に1枚以上のペースでシャッターを切りまくった。
しかし、シャッターを切るのに、あまりにも忙しすぎる。
作品を見て、一点一点を味わうのに、時間を掛けなさ過ぎたのだ。
ちょっと見ては、カメラを構え、移動、また次にちょっと見て、カメラを構え、また移動…
もはや、作品をカメラに撮りに来ているような鑑賞方法だった。
しかし、それは僕だけじゃなかった。
周囲の人だって、作品を一目見て、スマホを構えて、シャッター音を鳴らして、さっさと次へ行ってしまう。
それは、僕がよく知っている、美術館の鑑賞スタイルと、異質だった。
館内に作品を語り合う小さな声と、シャッター音が、小さく響いていた。
作品の鑑賞スタイルは人それぞれだ。そこを悪くいうつもりはない。
一枚一枚作品を撮ってそそくさと行ってしまう人だって、バチッとくる作品があれば、5分だって10分だって止まって、味わうように作品を堪能し、心にいつまでも焼き付けてしまうこともあるだろう。
それなら、作品をビジュアル情報として記録できるようになった展示では、
下手すれば、「作品を後で写真で見れるんだから、撮るだけでいいでしょ」って捉え方になるかもしれない。
それだと、美術館にわざわざ足を運ぶ意味なんてないだろう。
しかし、「作品の情報」を差し引いてもなお、美術館で見る価値が残る鑑賞法って何だろう。
たとえば、紙やキャンバス、画材の質感とか、作品への光の当て加減での見え方の変化とか、展示される場所の違いで、見え方や迫力が変わってくるとか…
カメラで捉えきれない、その場に行かないと味わえない情報が、まだあるものだと僕は思う。