「自信を持たなきゃいけない」幻想から自由になるには
僕はこのブログで、もっともらしくノウハウを専門家のように書いていますが、
とんでもない。不安定な勤め人です。
今でも自分が何者かわからないし、自分をどう表現していいかわからないし、しょっちゅう切れそうだし、消えたくなるし、自信なんてありません。
でも、自信がないことを隠して生きている人が、世の中の大多数を占めています。
まるで自信がないことを見せることが、悪であるかのような風潮がこの世を多い尽くしています。
たとえば、仕事をするとき、自分の用意してきたものや、売ろうとするものを、自信を持って売らないといけないし、
その売る人も、堂々としていて、落ち着いていて、信頼できる、完成された人間を、「自信を持って」装っていなければならないし、
女性に好かれたいときも、「女性は自信のない男が嫌い」といわれているので、自信があって話がうまい男を演じないといけないし、
Facebookでは、自信のありそうな顔写真と、自信に満ち溢れたエピソードが流れ、
ネットには自己啓発くさいポジティブな記事にぶちあたらない日はないくらい…
そんな風に、自信を持つように人を仕向けることにあふれています。
人々に虚勢を張らせたり、立派な人間であるように見せることを無意識に要求され、
弱いメンタルと現実の自分の板ばさみに耐えられなくなった人が、今日も静かにどこかで壊れています。
誰もその人自身のことを見ようともしていない。
映画評論家で知られるライムスターの宇多丸が、ヒッチコックの映画『めまい』を評論したとき、
「幻想しか愛せない男と、幻想としてしか愛されない女の悲劇」と表していました。
世の中の人々は、実際の人間の中身を無視して、「人間は明るくて、健康で、自身があって強くて、ポジティブで、希望を感じさせるものが良い」という理想そして幻想を、無自覚にあてはめてきます。
その幻想しか愛せない人々と、幻想に当てはまらなければ愛されないことが、悲劇を生んでいます。
これが映画なら、風刺が効いているので罪はないのですが、
現実というノンフィクションで、「自信を持っていない人は悪だ」というファンタジーを、生身の人間に体現させようとしているので、実にタチが悪いです。
そんな風に、その人自身を見ようとしていないのです。
どんな人かを時間をかけて理解しようとするところを面倒くさがって、
早いことコミュニケーションができそうな相手を分けようとする余裕のなさ等が、
第一印象の良さやリーダーシップ等のてっとり早い評価基準で勝負をかけさせる風潮を作り、
その一環として、「自信」という印象の良さを持つように仕向けているのではないかと思います。
自信がないことを言える場を持つ
僕は、自信を持つことに疲れました。
自信がない、能力もないのに、無理やり能力も自信もつけようとしましたが、
能力はついても、自信がついていかず、それを補うように虚勢を張り、
しかし、テンションがついていかず、無気力になってしまいました。
そんなとき、「もう僕疲れた!無理!やっていける気がしない!」と、親しいところから弱音をはきだすようにしてきました。
最初は親からだったんですが、徐々に親友や尊敬できる人、そして全然知らない人等に広げていきました。
「自信?うーん、ないっすね。まぁ、やるだけやるしかないんじゃないですか?」と、自信がないことを、あっけらかんと口にするようになると、自信を持つために自分を焚きつけたり、自信について悩むことが少なくなったように思えます。
ストレスや気疲れは大分減りました。
たしかに、自信があってできる人のフリをしていた頃の人は、遠ざかっていきましたが、
変わらずにつきあってくれたり、(弱いところを出せるので)むしろ仲が深まったりし、
新しく、無理なくつきあえる人の仲が出来たりと、結果的にはプラスになったかと思います。
あとは、自分が行く会合があるのですが、どちらかといえば、悩みを語り合う傾向があるので、
そこでは自分も自信のなさを出したりできています。
自信のなさや悩みや弱みを出せる、物理的な「場所」を持っておくことって、大事だな、って思いました。
誰か一人は、自信がない、とか、強がらなくていい人を持っていることはおすすめです。
これが一人でもいると、生きている上でしんどさは大分変ってくるでしょう。