流れて消えるだけじゃ、語り合えないから

この人いいな、という人は、前向きでも後向きでもなく、ただ中間の状態でその場を動いているだけ。

侘びチョコ

ホワイトデーに物をお返しする、というのが、たまらなくだるい。

今年は珍しく義理チョコをたくさん頂いてしまった。

受け取って食べてしまったからには、一人ひとりにしっかりお返しをしないといけない空気になってしまっている。

強迫感にとらわれてしまって、しかも下手なものを選べないこともあって、百貨店に伸ばす足が重い。

金銭感覚が小学生並みの僕にとって、馬鹿にならないお金が、飛び降り自殺していくのが見える。

ビックリマンチョコが箱買いできるんじゃないか、ってくらいに。

面倒くさい。選んでいて何が楽しいのか。

そんなとき、職場の同僚と「ホワイトデーのお返し、どうしてる話」になった。

☠(僕)「面倒くせえ!ホワイトデー面倒くせえ!もらうのも返すのもしんどい!」

☃(同僚)「どうしたんですか?何が面倒くさいんですか?」

☠「(上記の理由を説明)渡すのが明日で、いちいち百貨店に買いに行かなきゃいけないんだけど、どんな風にしたらいいんだろう。」

☃「そんなに人数いたら、みんなで取って食べられるような、アソートみたいなのでいいんじゃないですか?」

☠「あっ!それなら気が楽だな!」

そこでみんなで食べるものと聞いて、連想を働かした僕は…

☠「百貨店で買って、みんなで食べるなら、ゴーフルだな!」

☃「そーですね。ゴーフルなら無難かもしれませんね。」

☠「ゴーフルってさ、お詫びの品ってイメージしない?僕なんて子供のころ落ち着きなくて、しょっちゅう他の家の子につっかかっては、母と一緒に菓子折持って謝りに行ってさ、そのときにだいたいゴーフルを包んでいくわけよ。」

☃「へぇー。お詫び感覚で、チョコ持って行くのもアリかもですね。」

☠「アリだね!でも、お詫びだと、その場の空気が萎えそうだから、もう一ひねり必要だね…。」

そこで僕は、「侘びチョコ」というものを提案します!

そんなやり取りの中で、日本の伝統の美意識「侘びしさ」を感じさせるものをホワイトデーに投げてみるのもありかな、と思った。

わび」は、華やかさの中ではなく、落ちぶれていくことや、心細さ、申し訳のなさ、等の中に美を見出すといわれている。

そういえば、中国の農民が日常的に使った茶碗を、千利休が茶会で使っていたのを知って、「わび」とはこういうものか、と印象に残ったことがある。

それなら、きれいにパッケージして百貨店に並べようとしたものではなく、かといってお菓子コーナーで売っているものでもなく、

普段使いで、人に見せるようなものでもないけれど、それだとちょっと失礼にあたるし…

手作りだと、僕にはその習慣も趣味もないので、不自然な感じがするし…

贈り物をするなら、相手に良い気分でいてもらわないといけないのか、という規範意識に襲われそうになるし…

あぁでもない、こうでもないと、独りすりあわせをしていた。

そういえば、今日の昼ごはん。職場の人と食べた。

職場のおばちゃんが持ってきた、かやくごはんおにぎりが、実においしそうだった。

ご飯の味付けはしょうゆや酒、みりんのみ。具材はちくわと刻んだにんじんだけ。

のりを前後に重ねた、シンプルな△のおむすび。

これが実に素朴で、シンプルで、もうお腹に入らない状態だったのに、素材にこだわった珍味でもないのに、美味しそうなわけですよ。

それを周囲の人が、美味しそうな顔してつまんでいる。

美しい光景だなぁ、と思ったんですよ。

「侘びチョコ」は、どういうものにしようかは、まだまだ考え中だけれど、

(これから駄菓子屋に行って、昔ながらのチョコ菓子でも買おうかなぁとも考えた。)

ただ出来合いのものを渡すのではなく、悩んで、気づいて、見つけて、

自分の納得いくものを見つけていくのも悪くないな、と思ったのでした。