流れて消えるだけじゃ、語り合えないから

この人いいな、という人は、前向きでも後向きでもなく、ただ中間の状態でその場を動いているだけ。

「業(ごう)」を肯定する自己分析

久々に会った、福祉系の仕事で働いている知人が、仕事でノイローゼになっている最近、

落語にはまって、毎日Youtubeで落語を見ている日々を送っている、ということでした。

落語の何が良かったかというと、「落語は、人間の業(ごう)を肯定する。」ことだというのです。

この論は、立川談志師匠が唱えたものでした。

どういうことかというと、落語には、どうしようもないような怠け者や、自分の身を顧みない強欲な者、ダメ人間が登場し、彼らが笑いを際立たせている貴重な存在として扱われているのです。

人間は弱いし、怠けていたいときもあるし、人でなしなこともしたいし、衝動的に殴りたいことも出てくる。そんな「どうしようもない」人たちが、落語の中では存在でき、笑いを誘う者として存在できる。

これが、「落語とは、人間の業の肯定である。」の意味するところではないかと思います。

落語にハマったこの人が働いているのは、福祉職です。

それも、現場だけでなく、行政と折衝しないといけなかったり、利用者からの無茶な要求に遭ったりながらも、それでも、常に人の支援や福祉のあり方について考え続けてきた人です。

利用者や行政・支援機関等が「こうしなければいけない」という要求に、生身の弱いのに強くあろうとするけれど、うまくやりきれない人間が、モロに板挟みになっています。

そんな「業を否定する」環境にさらされているからこそ、業を肯定する落語にはまったのだそうです。

この、「業」が自分にもないだろうか、

あったら、どうやって「業」と付き合っていくのか、ということが、自己分析にもつながります。

★「業」は、「わかっちゃいるけどやめられない」弱さから出る動き

さて、「業」という言葉をあまり聞き慣れない方も多いと思いますので、どういうものか、というのを、実例を出してみたいと思います。

実例の材料となっているのは、私の体験談です。

私は、1年程前、とある「悩み」を抱える人たちが話し合える会を主催していました。

その会は、基本的に「悩み」について語り合ったり、成功できるように情報交換する等の目的に使われる場でした。

しかし、その場というのは、それまで人間関係や学校の友達づきあいでうまくいかなかったり、恋愛に失敗して取り残されたままの人たちが集まっていました。

「悩み」ゆえに、人並みの人生経験をすることができず、仲良し集団の中で楽しく過ごすとか、何でも相談できる親友がいるとか、異性の友達ができるとか、学生時代に学生らしい経験や、青春を謳歌するといった、

年相応に周りの人と同じ経験をし、仲間として承認され、友情や恋愛を十分に味わうという経験を失っていることが多いというのです。

友達も恋人もできなかった(主に2,30代の)人たちは、その場に自分と気が合う人たちが集まっていたり、話せる機会の乏しかった異性と話せたりして、今までできなかったことを取り戻せるようになったので、通いつめ、友達のように仲良くするようになりました。

その会以外の場では、うまく立ち回ることができず、人間関係を作ることが困難な人が多いです。

そうした人たちは、会の外で友達や遊び相手を作ることが難しいので、いつしかその会や、似たような会ばかりに行くようになり、そこでしか、居場所を見つけられないようになってしまう人が多くなってしまったのです。

中には、話し慣れていない異性に、愛想よくされたのをいい事に、連絡先を交換して、異性にメールを連発して送ったりする等のトラブルが発生したり、異性を誘ってどこかに遊びに行こうと迫る人も出てきたりしました。

本当は、「悩み」について語ったり、情報交換をする場なんですが、

その目的を越えて、自分が満たされなかったことを満たしにやってくる場になってしまった。

これが表向きは問題となってしまいます。

彼らには、「友達や恋人が出来ない問題は、他で解消してからきなさい」と言いたいところでした。

しかし、会の外でうまく人間関係も恋愛の成功も築けなかった彼らが、外でうまくやれるでしょうか?

うまくいかなかった彼らは、行き場を失って、人間関係が築けそうな、この会に行く他にないのです。

本当は、会の目的に沿ったルールや規則がある。

そんなことはわかっているけれど、ここでしかやっていけないから、来てしまう

やっちゃいけないとわかっているけれど、異性と仲良くしたいと思って、行動を起こしてしまう。

この「わかっちゃいるけど、やめられない。」 人が止めることに抗えずにやってしまう感覚が、

「業」というものだと思います。

★「~したい!」欲求を認めて、自分をヨシヨシしてあげる

ダメだとわかっていても、どうしてもやってしまう「業」というものは、

人間の行動原理の、最も奥深いところにあります。

その「業」が見えることで、「なんで自分はこんなことをしてしまっているんだろう…」とか、

「自分は本当は何がしたかったんだろう…」ということが見えてきます。

また、業は世間の規則や、自分の規範意識に抑圧されることが多く、そのため、規範に縛られたしたくない行動をしてしまうことをしてしまうことが多いので、「業」と、それを抑圧するものに気づかないと、フラストレーションがどんどんたまっていきます。

うまく処理できないと、爆発して暴力や自傷行為に走る危険性もあります。

自分の「どうしようもない」業、そして、業を縛る「ルール」や「規範意識」の関係を知ることが、

自分がしたかったことを発見したり、ストレスをためて爆発しない仕組みを発見することにつながるのではないでしょうか。

そして、「業」を見つけてしまった方へ。

「業」は、どうしようもなく存在するのだから、素直に認めてしまいましょう。

そして、そんな欲求がある自分を、暖かい親のように、ヨシヨシしてあげましょう。

誰かが認めてくれなくても、自分だけでもいいから、業のある自分を知って、認めてあげれば、

業を持つことに罪悪感を抱かなくてもいいし、業に対して抑圧してストレスをためなくてもよくなるでしょう。

世の中はとにかくうまくいかないです。

正しくあろうとしても、人のためになりたいと思っても、それができない自分がいる。

怠惰や強欲や、嫉妬心が出て、それに負けてしまうことがある。

だけど、その感情は起こってしまっているものだから、

そのまま認めてしまった方が、少しは気を楽にして生きられるのではないでしょうか。